生存できる進路が狭まったのは統治側、個人どちらの責任?
の記事に、はてブコメント書いたけど、もう少し書きたかったのでブログを書こうと思う。
機械科とかでは5倍の求人倍率とかある訳で、貧困に陥った人は、世間が求めてるスキル獲得・・・というか、残念ながら進路選択に失敗したのだと思う。 進路選択は個人の自由なのだから、やっぱり個人の責任だと思う。
(社会側の落ち度はせいぜい、この進路だと就職できないかもよ、ということを知らせなかったくらいだと思う)
でも、より上の世代では、同じ進路選択でもセーフだったのだから、難しい選択だったのだとは思う。
数十年間、どんな進路でも(東亜や欧州が工業ではなく内戦とかにかまけてて、日本は好景気だったので)貧困にならない状況だったけれど、
再び進路によっては貧困に陥る状況となって、進路選択は難しくなってたと思う。
連載を3人分見たけれど、3人とも堅実な進路ではなく自己実現を目指してた。しかし、環境は(東亜や欧州が工業に目覚めて)ハードモードに・・・。自己実現を煽った当時の社会風潮や教育方針は悪いと思う。
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やっぱり、根本的に、「自らの分は自ら生産すべき」だと思うし、
世の中には(社会に必要とされている)工業高校や工学部、看護など高求人倍率な進路を選び、自らの分を生産してる人もいる。
自らの生産量を上げずに政治に配分を主張するのでは、結局そういう人からの分け前をもらうという事になるのだと危惧する。
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理想としては、
「現在貧困に陥ってしまった人が、社会が必要としてる生産スキルを今からでも身につけ、生涯をその職に捧げる決意をし、自らの分を生産できるようになる」
(そういうモデルケースが生まれる社会になる)
・・・だと思う。
そういう訳で、デモにしても、
「高校・大学で高求人倍率進路を選ばなかった我々に今から学び、生涯をその職に捧げるチャンスを!」(=中年の実業学科入学や卒後の採用を求める)
・・・とかが本来あるべきであって、
生産量はそのままに、配分増だけを求めたのでは、最初から社会に求められてる(が、喜んで選ぶ人が少ない)職を選んだ人との溝は深まるばかりだと思う。
(社会が求めるスキルの学び直し&卒後採用が拒否られた後に、じゃあ生活できないから配分増を求める・・・という流れなら仕方ないと思う)